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人はいかにして自分のために料理を振る舞うようになるのか?

 

大学2年のころに1人暮らしを始めた。しばらく実家から通っていたが、あまりに遠い(2時間強)ことに音を上げてしまった。おじさんたちのぜい肉に文字通りもみくちゃにされながら電車通学するのもつらかった。講義中に寝ていると、なんだか通学時間の分を寝ているみたいで寝起きが悪かった。

 

1人暮らしを始めると、自然と料理をするようになった。知人にはまったく料理をしない人も多かったけれど、そうした中でわたしは自炊するようになった。どうしてだろうと当時は思った。でも考えてみると、以下の条件が揃ったからなのではないかと思う。

 

  1. 生活導線に充実したスーパーがあった
  2. 調理器具や調味料にそれなりに初期投資をしていた
  3. 友達が少なかった

 

これらすべてがかけがえのない要素になったとは思わない。けど例えば、

 

  1. わざわざスーパーまで導線を外れる必要がある(買い物が面倒)
  2. 一口コンロ、厚手の鍋がない、和風調味料しかない(調理が苦痛なルーティンに)
  3. 友達との遊びや飲みの予定でスケジュールがぱつぱつ(1人の時間がない)

 

という状況に置かれていたとしたら、継続的な自炊習慣を得ることも、より美味しい料理をつくれるようになりたいと思うこともなかっただろう。だからわたしは自然と自分のために料理を振る舞うようになった。

 

★★

 

とかなんとか言いつつ、その後も時期によってはひどい食生活をしていた(例えば賃金労働者になりたての頃などは)。いまだにジャンクフードが食べたくなってしょっちゅう食べるし、それが悪いことだとも思わない。だからまぁ結論とかも特にないんだけど、わたしが食べることや料理が好きなことも、いろんな偶然から成り立っているんだなぁということは今更ながら思う。

ブライアン・エヴンソン『ウインドアイ』、仲卸としての翻訳家

 

ウインドアイ (新潮クレスト・ブックス)

ウインドアイ (新潮クレスト・ブックス)

 

 

最愛の人を、目や耳を、記憶を、世界との結びつきを失い、戸惑い苦闘する人びとの姿。かすかな笑いののち、得体の知れない不安と恐怖が、読者の現実をも鮮やかに塗り替えていく――。滑稽でいて切実でもある、知覚と認識をめぐる25の物語。ジャンルを超えて現代アメリカ文学の最前線を更新する作家による、待望の第2短篇集。 (新潮社HP)

 

それなりに小説を読む方だと思うけど、柴田元幸さんの翻訳、というか柴田さんの目利き(本の選定)を信頼している。アメリカ現代文学を自分から原書で掘りに行くのはけっこうきびしいので、代わりに柴田さん訳の新刊を逐一チェックする。わたしが鮨屋だとすれば、柴田さんは仲卸。まぁわたしは流れてきた本を読むだけで、何も握っていないが。

 

翻訳技術などについてはよくわからない。1つ思うのは、柴田さんの翻訳はリズムが良くて読みやすいこと。原文がゴツゴツしている時は、それに合わせて訳文もゴツゴツさせているとどこかで書いていたけど、それでも基本的にはスルスルと流れ読みやすい。

 

というわけでブライアン・エヴンソンの『ウインドアイ』を見つけた。読んだ。25篇も入った短編集。一言で言うと恐い。恐いんだけど、ホラーとはどうも突く所がちがう。どの作品でも、突然わたしたちの常識では理解できない物事が起き、人々は突拍子もない状況に置かれ、悲劇的あるいは判然としない結末をむかえる。もちろん理解できないことや突拍子もないことが起きるのは恐いので、その意味ではホラーだ。

 

でももっと恐いのは、前提だと思っていたことや認識の枠組み(認識体系)が、実はまったく不確かなものであったと気付かされることだ。つまり恐さの震源は他でもないこの内面にあるということ。「狂っているのはあの人ではなく、もしかしたらわたしの方なのかもしれない」。こういうのって想像してみると恐いけど、気づかないだけで実は日常の中にありふれている。

 

特に面白かったのは、表題作の「ウインドアイ」と「知」。どちらも不気味で、わたしたちの認識体系(エピステーメー)が揺さぶられる1篇。

 

遁走状態 (新潮クレスト・ブックス)

遁走状態 (新潮クレスト・ブックス)